碑文論争 (20110710)
今年もあとひと月もすると終戦記念日がやってくる。
そしてその少し前の8月6日は広島平和記念日だ。
僕が初めて広島平和記念資料館を訪れたのは2年前の7月だった。
とても暑い日だったけど、平和記念公園に一歩足を踏み入れた瞬間に全身に悪寒が走ったことを覚えている。
あの地には、多くの霊魂達が今も成仏できずにさまよっている。
碑文論争というのはご存知だろうか。以下ウィキペディアからの抜粋である。
「原爆死没者慰霊碑の石室前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が 過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとな る」に準じたものであった。
この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については、建立以前から議論があった。1952年8月2日、広島市議会に おいて浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁している。同年8月10日の中国新聞には「碑文は 原爆投下の責任を明確にしていない」「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」との投書が掲載された。これにはすぐに複 数の反論の投書があり、「広く人類全体の誓い」であるとの意見が寄せられた。浜井市長も「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間 の世界にふたたびあってはならない」と、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている。」
本文にあるとおり、現在は「主語は人類全体とする現在の広島市の見解」が一般的に通用しているようで、最近では作家の村上春樹さんがカタルーニャ国際賞での受賞スピーチでとりあげているので「ああっあれか」と思い出す人も多いだろう。
「「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。」(村上春樹氏のスピーチより一部抜粋)
しかし、僕は思うのだけど、原爆死没者慰霊碑の碑文としてこの「安らかに眠って下さい。
過ちは繰り返しませんから」という文句は、本当にふさわしいのだろうか。
この慰霊碑はたんに「戦争死没者の慰霊碑」ではない。原爆死没者慰霊碑である。
原爆死没者慰霊碑が世界中の戦争死没者慰霊碑を代表しているわけでもあるまい。
一瞬にして二十万もの民間人の命を奪ったのは米国が作って米国が投下した「原子爆弾」である。
既にあの8月の時点で日本の敗戦は連合国の間では周知の事実であったことは、チャーチルの「第二次大戦回顧録」からも明らかであり、したがって、原爆は連合国側が戦争終結目的のために「やむを得ず投下した」わけではけっしてないのである。
後からみれば「人間として絶対にやってはいけないこと」を決定し、実行したのは米国人である。
したがって、過ちを繰り返してはならないのは米国であって、日本人を含めて決して人類全体でない。
同じくウィキペディアからの抜粋だが、インドのパール判事はこの碑文を通訳を通して読んだ後、「日本人が日本人に謝っていると判断し「原爆を落と したのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」との主旨の発言をおこない、これを発端として碑文論争が活発化した。」という。
戦後しばらくの間公職追放の目にあっていた歴史学者の平泉澄さんは、この碑文について次のように述べている。
「若し米国によって此の銘が書かれたのであれば、下の句は先ず意味が通じるでありませう(しかしそれにしても上の句は意味をなしませぬ、人を殺して置いて、安らかに眠って下さいとは、人を馬鹿にした挨拶であります。)而して此の墓が、日本人によつて造られ、此の銘が日本人によって書かれたといふの であれば、これは全然意味をなさざる文句であり、東西をわきまへず、明暗を知らざる者の妄語といふの外ありませぬ。」
僕もこの意見に頷かざるをえない。
日本人が、二十万の同胞犠牲者に対して書くのであれば、やはり文面は早急に変更すべきだろう。
例えば、「安らかに眠って下さい」という上の句は問題ないだろう。
事実、安らかに眠ることができない無数の霊魂が広島平和記念公園のここそこに存在していたことは前に述べた。皆さんには一日も早く成仏して欲しい。
したがって、変えるのは下の句ということになる。
いくつか案を考えてみた。
●「安らかに眠って下さい。いずれ必ず仇討ちいたしますから」
死没者の恐怖や苦痛を思うとこのような文句も考えられるけど、現在の日本の立ち位置や世界情勢・対米関係等を考慮するとまったく現実的ではない。
●「安らかに眠って下さい。原爆投下をきっと後悔させてみせますから」
一見過激だが、前のと比較するとけっして表現がソフトなだけではない。米国大統領の一言の謝罪で方がついてしまうのだ。
●「安らかに眠って下さい。いつの日か必ず世界を征服いたしますから」
死没者の犠牲を思うとこれくらい壮大な思いを文句にすることも一案かもしれない。
ただし、こんなことを考えている日本人が実際にいるとも思えないが。
●「安らかに眠って下さい。永遠に米国の原爆投下を恨みますから」
日本は米国の原爆投下を大いに恨むことから再出発するというのも選択肢としてありうるのではないか。
なお、恨むのは「米国の原爆投下」であって米国ではない。
●「安らかに眠って下さい。誰からも二度とあのような真似はさせませんから」
「日本は今後二度と何処の誰からも原爆投下などというふざけた真似は絶対にさせません」と誓うことは、我々自身を鼓舞するうえでも非常に重要なことではないか。
●「安らかに眠って下さい。世界の平和に貢献いたしますから」
これは戦後日本の目指すところであり、実際に行なってきたことだけに現実的な文句であるといえる。
●「安らかに眠って下さい。私たちもいずれそちらに参りますから」
死没者に寄り添う気持ちは伝わるかもしれないが、当たり前のことなのでわざわざ碑文にするほどの内容とも思えない。
●「安らかに眠って下さい。永久(とわ)にご冥福をお祈りいたしますから」
死没者の無念さを思うと、残された同胞としてはご冥福をお祈りすることしかできないのではないか。そしてそれを誓うことしか。
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