この映画を観る③ (20030609)
名監督シリーズ① 黒澤 明
いい時代になりました。
その気になれば、観たい黒澤映画がいつでも観ることができる。
僕が若かった頃は、情報誌(ぴあ)を丁寧にチェックして、「わが青春に悔いなし(1946年)」を保谷市民会館まで片道1時間30分くらいかけて観に行ったりしていた。
「まだ、夏休みの研究課題が決まらないんだ」という学生さん「SARSは怖いし、賞与も少なそうだから、今年の夏は旅行も行かずに家でごろごろしていよう」というリーマン君、あなた達に是非とも提案したい。
「今年の夏は騙されたと思って、黒澤明映画を全制覇してみなさい」と
もし「映画の歴史上、最も偉大な映画監督を一人挙げろ」と言われれば、僕は迷うことなく「おこたえいたします。それは、黒澤明であります」と答える。
世界中の偉大な巨匠の名作の多くを観てきた僕が言うのだから、もうそれは絶対に間違いない。
この、「歴史上ナンバー1映画監督=黒澤明」の解答は、僕が「作品の質×作品の量」という数式から導き出した答えだ。
例えば、世界映画史上のナンバー1作品は「市民ケーン」というのが、ある程度通説となっている。
これには実は僕も異論がない。
しかし監督のオーソン・ウェルズは世界映画史上のナンバー1監督かと聞かれれば、答えは「ノー」だ。
「市民ケーン」は映画界のエベレスト山だが、ウェルズの作品で、3千メートル級以上の山は、異論はあるかも知れないが、まぁ「市民ケーン」だけだ。
ところが黒澤明ときたら「七人の侍」1本でも充分に偉大だが、そのほかにも「生きる」、「羅生門」、「用心棒」、「椿三十郎」などなど超富士山級の傑作・名作をたくさん作っている。
やはり恐れ多くも巨匠と呼ばれるからには、少なくとも3本以上の傑作は作っていて欲しい。
そうやって僕なりに思いつくまま巨匠を挙げてみると、黒澤明を筆頭に小津安二郎、溝口健二、ジャン・ルノワール(仏)、フェデリコ・フェリーニ(伊)、イングマル・ベルイマン(スウェーデン)、ルキノ・ビスコンティ(伊)、チャールズ・チャップリン(米)、ジョン・フォード(米)、エリア・カザン(米)、ウイリアム・ワイラー(米)、ビリー・ワイルダー(米)、アルフレッド・ヒッチコック(英・米)、スタンリー・キューブリック(米)、スティーブン・スピルバーグ(米)、クリント・イーストウッド(米)、フランシス・コッポラ(米)といったところだろうか。
物事を評価するには、物差しが必要である。
あなたがまだ若く、自分の中に映画を評価する物差しを持ちたいのであれば、上に挙げた巨匠達の作品は、最低でも観ておかなければならない。
若いうちに、できれば10代から20代の半ばくらいまでに、特にビスコンティやフェリーニ、ベルイマンなどはできる限り観ておくのが望ましい。
社会人になって毎日が忙しくなると、彼らの作品のように芸術性の高い映画はどうしても避けがちになり、観るのは娯楽映画が中心になるからだ。
別の言い方をすると、古典的な芸術作品は、時間のある若いうちにしか観ることができないと思った方がいい。
今ならきっとまだ間に合う。
そこで黒澤映画である。
黒澤作品は、芸術映画も娯楽大作も、その出来がすこぶるいい。
すべての黒澤映画を観ることで、芸術映画の何たるか、娯楽映画の何たるか、格調の高い映画の何たるかを学ぶことができる。
できれば初監督作品である「姿三四郎」(1943年)から順番に観ていきたい。
昔、淀川長治(映画評論家/故人)が「つまらない西部劇を百本観るより、駅馬車(ジョン・フォード/1939年)1本観る方が、遙かに有益だ」と語っていたが、全くその通り。
平凡な作品を3,000本みるくらいなら、黒澤映画30本観た方がずっと有益である。コッポラやスピルバーグといった偉大な映画監督達が、黒澤明を敬愛してやまない理由も、きっとよく分かるだろう。
と、いうわけで今回はちょっぴり力んじゃいました。